黒猫の夜想曲

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お隣の彩さん 第9話『闇』



店長扇誠が空気も読まずに叫んだ一言がスタッフの間で小さなざわめきが起きる。いつもの出勤時間よりも集められた彼らにとっては、一緒に働いてきた仲間の解雇通告に驚きを隠せずにはいられなかった。むしろ、嬉々たる表情を浮かべ、自慢げに語ろうとしている男に嫌悪感を抱いていた。
 そんなスタッフ全員の冷たい視線など気にすることなく、扇誠店長はポケットから写真を取り出した。
「お前が相沢瑞希と仲良く帰っているところを写真で撮影した。周防よ。てめえは俺が作ったルールをしらねぇの?」
「さあ? 全く知りません」
「フン。ならば、教えてやろう。この店はアルバイト同士の恋愛はご法度だ。仕事中でイチャイチャしたら仕事にならねぇんだよ!!」
 仕事を全くしていないお前が言えることか!?
「だからよ。前から怪しかったお前と瑞希ちゃんの後を追いかけて、この写真を撮った。ちゃんとした証拠じゃないと下手な言い訳してお茶を濁らしたら、俺様の鉄拳が飛ぶからよぉ。優しい俺様がこんな証拠を提出しているんだよ」
 扇誠は乱暴にその証拠と言う写真を投げ付けた。俺はその写真を拾うと思わず絶句した。
 その写真は昨日、俺と相沢さんが一緒に帰っている後ろ姿を撮られた写真だったからだ。あのストーカーの正体はこいつだと言うのか?
 待て。
 相沢さんの女の勘が300M範囲内ならば把握できるとか言ってなかったけ? 相沢さんはストーカーが現れたとか言っている前よりもこの写真は撮られている。
 アテにならない勘だったな。あれ。
 だとすると、あのフラッシュはこいつが撮ったのか?
「一緒に仲良く帰っているんだ。まさか、これで恋人同士じゃあないって言ってみろ。俺はバイトの女の子を誑かした貴様に懲罰的な制裁をする必要があるなぁ」
「相沢さんとは付き合っていませんし、すでに仕事の時間が終了しているのにストーカーのように写真を撮っている時点で非難されるべきなのは、扇店長じゃないでしょうか?」
「あん? 俺様に向かって意見するつもりか? 俺様は厳重に社内に関する掟を守っているんだ。バイト同士の恋愛はご法度であり、それを守れないって言うんだったら。てめえはクビだよ。いらねぇよ」
「そうですか」
 俺は冷淡な声で間抜け面の扇誠の会話に渋々と応答していた。どういう理由であれ、適当な理由を付けて、俺をこの場でクビにしたいらしい。この男は自らの権力で気に入らない店員を次々と解雇を告げている。今回はついに俺の番がやってきたのだ。突然の解雇に抗議した元店員は弁護士を連れて、労働基準法違反をしているので訴えますと殴りこんだことがあった。だが、弁護士と元店員は扇誠に弱みを握られたのかは知らないが、あっさりと告訴を取り下げた。
 元総理の血筋で、あらゆる闇社会と財閥関連にコネと人脈を持っているこの男にとっては一般市民の告訴なんて蝿がたかる程度にしか思っていないであろう。
 そんな相手に敵対的な態度を取るのはほぼ無意味に等しい行為だ。あえて、反抗はせずに俺は冷めた態度で店長の口から出てくる汚い言葉を聞き流していた。
「ただし、瑞希ちゃんは別だぞ。てめえみたいな陰気臭い男の口車に乗せられただけだからな。寛大にも俺様が許してやる。まあ、当然。瑞希ちゃんには恩返しをたっぷりとしてもらうけどな。それから、」
「じゃあ、もう今日は帰らせていただきます。今まで長い間お世話になりました」
 クソが付く店長の長い話を聞くことなく、俺はさっさと自分のロッカーへ戻っていた。

 私物を整理した後、俺は乱暴に着替えた制服をロッカーの中に投げた。もう二度と着ることのない制服を洗わずに返すという俺のささやかな復讐を果たしてから、クビになったアルバイト先から立ち去った。
 両親が亡くなってから、生活費を稼ぐためにこのケーキ&喫茶店に働き出した。初めてアルバイトした俺は仕事の大変さと厳しさを知り、今まで自分が両親にいかに甘えていることを思い知った。この店で働いている時は色んな出来事はあったが、周囲の人々に支え合ってもらったおかげで今の俺がいる。
 しかし、お世話になった人たちはあの男のせいで皆いなくなってしまった。今まで働いてきた人間を自分達の都合で容赦なく切るような職場なんて自然と人は離れていく。だから、俺がこのバイト先を辞めるのは必然的なことだったんだよ。
 遅かれ早かれ、こういう結果になったのだから。胸を張って次の職場を探そう。
 今まで自宅と職場を歩いてきた帰路を辿りながら、もう二度とこの道を歩くことがない
ことに心のどこかに寂しさを感じていた。
 途中、書店に寄って無料の求人情報雑誌をあるだけ取って、中身を読みながら街道を歩いていた。この時間帯に誰もいないからぶつかる心配はなかったが、その中身は愕然とさせた。
「ないな」
 悠然と歩きながら独り言を呟く。
 その求人情報雑誌の中身は裏社会に繋がる求人ばっかりであった。世の中は100年に一度の大不況で非正規雇用の職種は全て大量解雇されている。この最悪な時期に仕事を探すこと自体が無理に等しい。自分の手を汚さないと、明日の生計を立てるのも難しい世の中になっていた。
 ともあれ、職がないことを悩んでいると気が付けば空腹になっていた。お腹が空いて、全く力が入らずに意識が朦朧と霞んできた。
 そういえば、彩さんに作ってもらった大トロの料理とか美味しかったな。あの絶品な味は近所のスーパーではきっと味わうことができない至高の一品だった。究極を遥かに越えた食材はどこかの海に行って仕入れているんだろうか。もし、マグロ漁船に乗れば、マグロをたらふく食べられるかもしれない。
 これはいける。
 マグロ食べ放題の夢を叶えるためにマグロ漁船に乗る。職を失ったばかりだし、次の職場も決まり一石二鳥じゃないか。都市伝説ではマグロ漁船の高収入バイトだと聞く。
 七つの海を駆け巡ってやろうじゃないか。体力的にきつい仕事だとしても、前のバイト先もケーキに釣られた男。やれる。やってやろう。
 そう決意すると俺は振り返って来た道を逆走する。目指す場所は、どこだ?
 とりあえず、港辺りで聞き込みを開始するぜ。

 その日、なんと漁船を乗ることが決まり、2年に及ぶ漁生活が始まる。

 きつい仕事は誰もやりたがらないってことで常時人手不足だった漁師の仕事はすんなりと決まり、俺は晴れて漁船に乗ることが決定した。至高のマグロを追い求めるには長期の漁生活が当たり前なので、2-3年はこの地に踏み入れることはできないと言う。その間の家賃を払うのもアホらしいので、さっさと自分の荷物を引っ越しセンターとかに運び出して新しい住居に運ぶように依頼した。
 引っ越しは1週間後先。漁船に乗るのは荷物を片付けてすぐにでも出発するらしい。家に帰れば、自分の荷物を整理して引っ越す準備をせねば。
 その前に。
 この場所で最もお世話になった人にお別れを告げねばならなかった。

 すでに陽は傾けている頃。
 もうすぐこの地を離れる敷地の高い外壁を見上げながら、俺はどこか緊張していた。なぜか、よくわからない。この事を言えば、何かが起きる。そんな嫌な予感がするのだ。
 やがて、自分の身長よりも二回りも大きい外門に辿り着くとそこに見知った人が心配そうな表情を浮かべて待っていた。
「お帰りなさいですぅ。周防さん」
「ただいま」
「あの女と一緒じゃないんですね。だったら、この後は私が作った料理を召し上がってくださいよ。今日はたっぷりと腕を奮った夕食を楽しみにしてください」
「うん。ありがとう」
「じゃあ、ちょっと待っててくださいね。すぐに温めますから」
「その前に……桜井さんに話しておきたいことがあるんだ」
「は、はい。なんでしょうか。お話って」
「俺は引っ越すことになったんだ」
 その言葉と共に彩さんの表情が歪み、足元がよろついた。それは普段知っている彼女とは違う様子なのだが、俺は気にすることなく用件を喋っていた。
「前に勤めていたバイト先が急に解雇されたからさ。新しい職場を探したんだ。次の職場はマグロ漁船に乗って、ひたすらモリとかで至高のマグロを突き刺したりする漁の仕事なんだ」
「そ、そ、そ、そんなの嘘ですよね?」
「えっ?」
「私は嫌ですよ。周防さんがここからいなくなるなんて」
「ごめんな。桜井さんとはようやく親しい仲になれたと思ったのに」
「そんなことを言うのだったら、ここに居てください。私は周防さんと過ごす時間が楽しくて幸せなんです」
「俺も桜井さんと一緒にいるのは楽しいよ」
「だったら」
「でもな。仕事を失ったら、ここに居られない。新しい職場を探して、次の仕事のためなら、住み心地が良かった場所から離れなければならないんだよ」
 彩さんがこのアパートに引っ越してきてからは衣食住の内、食だけは完璧に保障されていたような気がする。彼女が作った料理のおかげでどれだけ俺の心を癒されたことだろうか。そんな彼女のお別れはとても寂しく思えていたが。
 彼女は違っていた。
 顔色が蒼白になっていき、瞳孔が開きっぱなしになり、絶望に満ちていた。明らかに普通とは思えない状態に俺は少しだけ怯えを隠せずにいた。
「い、一緒にいてください」
「仕事なんかどうでもいいじゃないですか」
「私と忍さんがいれば、世界なんてどうでもいい!!」
「二人で死ねるなら、こんな幸せなことはないですよ」
「どうせ、こんな汚れている世界は裏切りますよ!! ゴミのように利用して、いらなくなった捨てられる。だけど」
「この世で愛し合った二人は違うっ!! ずっとずっと一緒にいられるの!!」
「それはとても尊いことで、素晴らしいことなのよ。ねえ、忍さん」
「お、お願いだから。わ、私を、一人にしないで……」
 怒涛に彩さんの口から出てくる言葉。いつの間にか、涙目になっている彼女に何も言い返すことはできない。
 俺は普段の彼女とは違う何かに恐れていた。
 いつも通りの笑みを浮かべていた彩さんしか知らなかったから、突然豹変した彼女に驚きを隠せずにはいられない。金縛りにあったかのように俺の足は全く動かなかった。。
「桜井さん……?」
「わ、私ったら、なんてことを。ごめんなさい。忘れてぇ」
 我を取り戻した彩さんは自分の失態にこの場に居辛くなったのか。顔を全身に紅潮させて、脱兎のごとく逃げ去った。豹変していた時は威圧感を感じたが、今は元通りのいつもの彩さんに戻っていた。特に深く考える必要はない。多分、さっきのは彩さんが少しだけ動揺したのであって、ヤンデレ症候群感染者ではない。大丈夫のはずだ。
 てか、今日の夕飯はご馳走して貰えないんだろうか。

「はい。もしもし、今日の昼頃にやってくるんですね。ええ、もう昨日の内に荷物はダンボールとかにまとめていますし。すぐに運べると思います。はい。では今日はよろしくお願いします。それでは」
 引っ越しセンターの業者さんと軽く打ち合わせの電話を切ると嘆息した。周囲の部屋はダンボールの箱だらけで、長年住み続けた部屋は荷物で一杯であった。
 あれから、一週間。
 お隣の彩さんと言葉を交わすこともなく、俺は引越しする当日を迎えていた。あれから、ちゃんとしたお別れを告げようと何度もインターホンを押したが、何の反応も返ってこなかった。居留守を使われているのかはわからないが、彩さんは俺を避けていると考えてもいいだろう。お別れの挨拶なんて、俺ごときなんてあれだけで充分と遠回りに言っているのに違いない。
 後、前バイト先の相沢さんにもメールや携帯にかけても、返事は返ってこなかった。ようやく、ストーカーの犯人はあの店長と教えようとしたが。こっちも解雇されてから音信不通になっていた。
 まあ、仕方ない。
 どうせ、2-3年も会う機会がないならば、自然と人が離れることは必然なのだ。
「さてと業者が来るまで何をしようかな」
 現在の時刻は午前10時頃。引っ越しセンターの業者が来るまで時間を潰すものがない。テレビとか娯楽の品は全て片付けて、今は部屋に言いようがない空白が広がっていた。
 ぼんやりと待つしかないらしい。
 その時に、俺の携帯に着信音が鳴り響いた。
 着信相手は……何も書かれていない。
 一体、誰が俺の携帯にかけてきたんだ? 
 本来ならそんな携帯に出ることはないのだが、あまりにも暇だったので出てみた。
「もしもし」
「あっ、周防さん」
「えっ? 桜井さん?」
「そうですよ。私です」
「あれ。俺、桜井さんに携帯の電話番号とか教えた?」
「そんな細かいはどうでもいいじゃないですか。ねえ、周防さん」
「んっ?」
「今はお暇ですか?」
「暇じゃないけど、少しだけ時間に余裕があるよ」
「そうですか。良かった。ねえ、周防さん。今から私の部屋に来ませんか?」
「うん?」
「最後のお別れを告げてませんから。それに私は感情に任せて周防さんにメチャクチャな事を言ってしまいました。だから、どうしても謝りたくて」
「わかった。じゃあ、今すぐに桜井さんの家に行くからな」
「待ってください。ちょっと、携帯は切らずにお願いします」
「どうしてだ?」
「とりあえず、周防さんの家を出て、玄関の前で10秒ぐらい待ってください。今、私はちょっと着替えている最中ですから」
「それなら。わかったよ」
 俺は彩さんの言葉を疑うことなく、右手に携帯を耳に当てながら玄関のドアを開けた。彩さんの指示通りにその前で待っていればいい。彩さんの着替えを覗くという最悪な出来事に遭遇せずに済んで良かった。
「あの、周防さん。いますか?」
「桜井さんのもう着替えたのかな」
「終わりましたよ。何もかもが……。真上を見てください」
「真上?」
 真上を見た瞬間。
 落ちてきた。
 何が。
 茶色をした物体が。
 あれは。
 そう。
 よく病んでしまった女性が殺る手口。
 なんだ?
 思い出せ。
 思い出せよ。
 思い出してくれ。
 あれを避けないと……。
 俺の人生は。
 最後に俺の耳から不気味な笑い声が聞こえてきた。
「くけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ
 くけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ
 くけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ
 くけけけけけけごほ ごほっ。 ごほっ。うにゃ?」
 それは……。
 彩さん、むせているし。
 てか、そんなことに突っ込んでいる余裕は。
 刹那。 
 容赦なく落下物は俺の頭に直撃した。
「ぐぎゃー!!」
 声にならない悲痛の叫びが周囲に響き渡った。
 まさか、上から植木鉢が落ちてくるなんて誰が予想できるか?
 薄れゆく意識の中、世界の全てが音を立てて崩れ去った。
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